島田枝里 話し方コンサルタントへの道(3)

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島田枝里 滝沢枝里 新人研修時

今回は、いよいよ就職活動のお話です。
熾烈を極めた局アナ受験。
そして、
希望いっぱい!だけど不安も・・・?
新社会人として歩き始めるまでのストーリーを
お話させていただきます。

————————————–

私が大学生だった当時、
アナウンサー試験の本格的なスタートは
今よりずっと遅く、
一番早かった東京のキー局でも、
試験は大学3年生の3月ごろだったと記憶しています。

そこから全国各地の放送局を
受験するわけですが、

ご存知の通り、
アナウンサー試験は競争率が非常に高く、
簡単には内定など出ません。

一番多かった局ではおよそ
2千人が受験していました。
その中から採用されるのは1人。
多くても3人までです。

実際とてもハードな面接、
試験の連続に
心が折れそうになることも多々。

最初に受験した局で、
面接時間はおよそ3分、
ろくに質問もされないうちに
落とされてしまったことが悔しく、

そこから奮起し、
私のアナウンサー受験が
一切妥協のない真剣勝負となりました。

当時は勝手に、
全国の受験者の中で
私が誰より一番勉強したし、努力した!!
と確信していて、
(今から思えば、
全くそんなことはないとわかるのですが。
もっと努力していた人は
いくらでもいたことでしょう 笑)

自分なりの努力や工夫は
生半可なものではありませんでした。

それでも、
いいところまでは行くのに、
なかなか内定が出ない。

「就職氷河期」という言葉が生まれるのは
この翌年のことですが、

去年までは売り手市場で、
一般企業を受けていた先輩たちからは、
言葉はよくないかもしれませんが、
かなり浮かれた
「おいしい話」をたくさん聞かされていたのです。

なのに、私たちの学年の現実はあまりに厳しく・・・。
この年は、多くの、特に女子学生が苦労した年でした。

それでも、夏になる前には
だんだん周りが一般企業で
内定を勝ち取っていきます。

さすがに私も、
夢を見過ぎていてはいけないのかなと、
現実的なことを考え始めました。

そして、
これが最後と決意して受験したのが、
長野の信越放送(SBC)です。

もう後がないと、それこそ必死でした。

長野は、小学校5年生から毎年、
夏になると家族旅行で
訪れていた場所なのです。

長野県内に入れば、
高速を走りながら聞くラジオは
いつもSBCラジオでした。

面接では、
県外の出身だけれど
子どものころからSBCラジオを聞いていたこと、
長野の好きなところや思い出、
もちろん自分の自身のことも
懸命に話しました。

自分のことだけでなく、
聞かれた質問に対しても、
丁寧に、真剣に答えていきます。

「その場合は
こんなところが問題だと思うので、
それに対してこんな風に考えて
対処していかなくてはいけないと思います。」

「今朝読んだ地元紙にこんな記事がありましたが、
今抱える問題はこういうところにあると思います。」
などなど。

ありとあらゆる質問に、
朝読んだばかりの新聞記事をも
引き合いに出して懸命に答えました。

ところが、
ある質問で答えに詰まりました。

その日の朝刊に
ある時事用語について書かれていて、
そのことについて聞かれたのです。

私は、前日から長野に泊まり、
地元の信濃毎日新聞には
目を通してあったので、
その用語が書かれていたことは覚えています。

書いてあった場所まで覚えているのに、
なんということでしょう、
肝心の用語が思い出せません。

「今朝の新聞で読んだばかりです。
その言葉は・・・
思い出せません。
少々お時間をいただけますか?」

「・・・」

「申し訳ありません。
やはり思い出せません。
書いてあった場所は覚えているのですが・・・」

あぁ、せっかく勉強したのに・・・。

結局、ほかの質問に移ってからも
考え続けたのですがどうしても思い出せず、
面接時間が終了に。

ですが、退席する瞬間も、
まだその用語が頭から離れません。

思い出せない自分に失望しつつも
思わず口をついて言葉が出ました。

「ありがとうございました。
あの・・・
今度お目にかかる機会がありましたら、
必ず〇〇を答えられるように調べておきます・・・」

力なく、一礼。

面接官全員大爆笑!!

「あれ?笑ってる・・・」
私は変な気分でした(苦笑)

私のガッカリ具合が
ある意味、あまりに自然で
おかしかったようです。

そんな調子だったため、
到底通った気はしませんでしたが、
その一生懸命さが
面接してくださった方々に
強烈な印象を残すことになったようでした。

その後、何とか次の面接にこぎつけ、
さらに最終の役員面接まで進むことができたのです。

後から聞いた話ですが、
もうそんな頃には、
「関西弁なのに
アナウンサーになりたいという、
気合の入った面白い子が来たぞ」と、
社内で話題になっていたというのです。

最終的に、私と、
地元出身の
ものすごくかわいい人が最終試験に残り、
(私は絶対に落ちたと思いました)
私が内定、入社。

見た目ではなく中身で選ばれたのだ!
ということが、以後心の支えになりました。

これもまた後から分かった話ですが、
当時の信越放送は、
県外出身者を原則採用しておらず、
アナウンス職は、それまで全員
県内出身者だけで固められていました。

そこへ、
気合だけは十分、
長野では必要のない関西弁を話す!?
県外出身アナが入社することになったのです。

なんだかすでに
トラブル満載な予感ですね(笑)

こうして、
アナウンサーとしては初の県外出身者として、
奮闘、いや格闘ともいえる
ハードな日々がスタートしたのでした。

・・・次回へつづく・・・

話し方コンサルタントへの道 (4)

島田枝里 滝沢枝里 新人研修時

新人研修時の写真。外部講師のマナーの先生に「いい声ですね!アナウンサーで入社ですか?」とお声かけいただき、うれしかったことを思い出します。

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