島田枝里 話し方コンサルタントへの道 (1)

学校での日々

「あの枝里ちゃんが、アナウンサーになったなんて!」

これは、私が局アナになったことを知ったときの、
幼稚園や高校時代の恩師たちの反応です。

こんな風に驚かれてしまうぐらい、幼いころの私は、
人前で話すことをよもや仕事にしようとは誰も想像しないほど、
大人しくて目立たない、むしろ引っ込み思案な性格でした。

いざというときに声が小さく、
「人に話すときはちゃんと大きな声で話しなさい。
まるで蚊の鳴くような声じゃないの!」と、
母によく叱られたものです。

 

そんな私の心の内はというと、
高校生ぐらいまでは、
とにもかくにも人の目が気になって仕方なく、
周りにどう思われているかを心配してばかりいるような、
気の小さい子どもでした。

常に自分に自信がなく、
自分の感情も人の気持ちもよく分からず、
他人の意見にすぐ左右されてしまい、
明確な自分軸というものがありませんでした。

また、中学から進学した学校が
県内でもトップクラスの中高一貫校だったため、
周りの友人たちの“超”が付く優秀さに圧倒される毎日。

早くから明確な目標を持つ同級生も少なくない中で、
私は夢や目標が特になく、

授業中はもっぱら空を眺め、
ノートの隅に絵を描き、
部活だけが楽しみという、

優秀な進学校にあっては
少々軌道から外れた6年間を過ごしていました。

そんな私が、大学進学時に明確に思っていたこと。
それは、
「とにかく家を出て、
早く一人で何でも出来るようになりたい!!
自由に好きなことをやりたい!!」
ということでした。

私は一人っ子です。
とかく甘やかされてきたと思われがちですが、全く違い、
「将来は一人で生きていくのだから、何でも一人でできるようになりなさい。」
「何でも自分で考えて答えを出しなさい。」

そう言われ続けて育ちました。

人一倍強い独立心は、こんな環境で育っていったようです。

また、自分に自信がないながらも、
得意なことでは負けたくない気持ちや、
自分なりの正義に合わないことへの拒絶感はとても強く、
よく周りからは、真っすぐな性格だねと評されていました。

今から思えば、融通の利かない頑固さも併せ持っていましたので、
良くも悪くもといったところでしょうが。

転機が訪れたのは、大学時代でした。
美術を除くと
(美術だけは学年で1番でしたが、
それで食べていけるほどの才能はないと、
早くから見限っていました。)
国語の成績が一番まともだったというだけで選択した
文学部国文学科に進んだものの、
古典文学にどうしても興味が持てません。

平家物語も源氏物語も、
研究したいと思うほどの面白みを見いだせずにいて、
ここでもまた勉強への意欲を欠きそうになっていました。

そんなとき、あれは1年生の後期のこと、
一つだけとても面白い授業があったのです。

それが『国語学』です。

最初の授業で先生が問いかけた、

「あ・い・う・え・お は、なぜこの順番に並んでいると思う?」
「じゃぁ、あ・か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ は、どうしてこの順番?」

この質問で、
いつも当たり前に使っている言葉の裏には、
文法以外にも法則があることを知り、
すっかり魅せられてしまったのです。

こうして大学での授業が俄然面白くなり、
その後、言葉の変遷や方言についてはとても熱心に勉強しました。

そんな中で、それまで何も見えてこなかった将来の夢も、
漠然と、言葉に関する何かがしたいと思うようになっていきます。

おりしも、仲良しグループの一人が
アナウンサーになる夢を持って勉強していて、
その内容に興味を持ったこともあり、

日本語研究の視点から専門的に
言葉やアナウンスを学べる専門学校にも通うことに。

初めは、
「社会に出てからも、会議の場できれいな言葉でうまく話せたらいいから」
という程度の気持ちだったものが、
学ぶうちに、少しずつ大きな夢へと膨らんでいきました。

そして、決して自信満々ではなかったものの、
いつの間にか、引っ込み思案な性格は過去のものとなり、
興味を引かれることには積極的に突き進むようになっていきます。

そこから私の人生は一気に加速していくことになったのでした。

・・・この続きは、次回の投稿にて。


話し方コンサルタントへの道 (2)

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください