島田枝里 話し方コンサルタントへの道 (4)

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島田枝里 滝沢枝里

「関西訛りがあるのにアナウンサーになりたい
変わった子が入ったぞ。」

そんな状況からスタートした私の新人時代から、
未熟さに悩みぬいた日々、
今につながる生き方の模索までをつづります。

写真は、入社3年目、選挙特番のときのものです。

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夢いっぱいで入社した放送局です。
緊張もするけれど、
それよりも楽しみの方が数倍上でした。

 

私は、アナウンサーとしては
初の県外出身者でした。

 

そればかりか、
アナウンサーだけでなく、
社内のほぼ全員が長野県出身者だということを、
私は入社してから知りました。
そういう意味では、私は完全にアウェイです。

しかも、入社試験の段階から、
関西弁の気合の入った子が入るという
噂が広まっていたため、
最初から社員全員が
私のことを知っているという特殊な状況。

ゆえに、何かと注目され
困惑することも正直ありました。

「あ~、あなたが関西の人!」
何度言われたかわかりません。
(本当は愛知県出身です 笑)

 

初めの頃はそんな物珍しさがプラスに働き、
本当に本当にかわいがっていただきました。

アナウンス部の先輩たちからしたら
ドキドキハラハラが伴う
危なっかしい新人の仕事ぶりだったでしょうに、
常に温かく見守ってもらえていました。
その安心感は、やはり絶大です。

また、違う部署の先輩たちからは
飲みに誘ってもらい、
浅間山荘事件や地附山地すべり災害など、
過去の取材に関する
鳥肌が立つような臨場感ある話を語ってもらいました。

また、こんなこともありました。

新人研修終了後、
当時の営業部長がアナウンス部長に、
なんと、
「彼女を営業部にほしい!」
と直訴したというのです。

「こんなこと、未だかつてないよ」と
アナウンス部長が笑って教えてくださいました。
ありがたいことでした。

 

ただ、いざしゃべる仕事となると、
私の場合、
出身が愛知、
大学が大阪ということで言葉に訛りがあり、

何か発すれば関西の人だと笑われ、
逆に長野の人が方言だと気付いていない言葉を
方言だと指摘すれば、
「そんな訳ない。」と
聞き流されてしまうという、
悔しい思いを繰り返します。

たとえ正しいことを言ったとしても
仕事の上での信頼や実績がないと、
聞き入れてさえもらえないのだということを
つくづく実感したのでした。

また、長野県の人が
誰でも当たり前に知っていることを
私だけ知らないというのも大きなハンディです。

「そんなことも知らないの!?」
これも何度言われたかわかりません。

かわいがってもらえている。
けれど、仕事となれば話は別。
言葉の訛りと、長野を知らないことで
完全アウェイの洗礼を受けることになったのでした。

 

それでも、
専門学校ですでに発声や読みについては
学んでいたこともあり、
原稿読みのわかりやすさという点では
新人にしてはとても高い評価を得ていました。

そんなこともあって、
入社2年目で、
夕方のニュース番組の
キャスターの一人として抜擢されるという、
私はもちろん、
社内的にもビックリ仰天の起用が決まったのです。

が。

放送局が最も力を入れている
夕方の看板番組を背負うということは、
それだけ求められる内容も
クオリティーの高いものです。

それに対応していくには、
当時の私はあまりに未熟でした。

 

今なら時代が違うので、
人材の育て方も変化しているはずですが、

当時は、新人を心身共に厳しい状況に追い込みながら
鍛えていくやり方がまだまだ健在でした。

あれは、報道フロアで過ごすようになって
1か月も経っていなかったころだったと思います。

ある日、報道部長からいきなりの指示が飛びました。

「動物園へ取材に行ってこい。」
「何を取材するんですか?」
「とにかく行ってこい。行って何がニュースか考えろ。」

報道部長からすれば、
動物園取材は、
事件事故と比べたらかわいらしい話題。

だからこそ、若い視点で何か見つけてきて
取材し、それを根気よく継続すれば、
私の経験値も上がるし、
コーナーとしても成り立つし、
長期取材がうまくいけば
一本のドキュメンタリーにもできるという
計算があったようです。

今なら、唐突な指示でも、
言葉の裏にあるそういった意図を読み取り、
それなりに対応できるでしょうが、
当時の私には理解不能でした。

自分で企画を立てて
取材に行った経験もなければ、
そもそも
ニュース取材自体が初体験なのです。

「何をしたらいいんでしょう?」
「取材ってどうやってするものなのですか?」

何を何回聞いても、
「とにかく行ってこい。」

ニュースの取材に出る責任感すら
今一つピンと来ていなかった私が、
いきなり、テーマどころかヒントすら与えられず、
何のノウハウもないまま、
取材先に放り込まれてしまったような状況に、

同行してくれた同期のカメラマンも
同情と不安の入り混じった複雑な表情を浮かべていたほどでした。

 

それでも、どうにかこうにか飼育員さんに話を聞き、
動物たちの映像を撮り、帰ってくると、

「で、これで何をまとめるんだ?」
「こんなのニュースになるのか?」
「そうやって演出したいなら、
そのように取材してこないと編集なんかできないぞ!」

もう訳が分かりません。

そうしてアタフタするうちに夕方となり、
その日一日、記者たちが取材し書き上げた
ニュース原稿を急いで下読みし、本番オンエア。

終わると集中力がプツリと切れて、
ドッと疲れが押し寄せ、
報道フロアのど真ん中にあった
打ち合わせ用のソファで
呆然としてしまいました。

 

そんな調子で、
毎日毎日、自分の不甲斐なさを思い知らされ、
気持ちの整理も頭の中の整理も出来ないうちに、
ただただ時間がやってきて、本番を繰り返していきます。

「アクセントが違う。」
「お前には常識ってのがないのか!」
「お前、本当にやる気あるのか!」

時間に追われながらも
極度の集中力が必要な
夕方のニュース本番前は
フロア全体が殺気立つほどの緊張感です。

そんな中で毎日毎日叱責され続けることで、
私はどんどん疲弊していってしまいました。

 

良くて当たり前、
誰も褒めなくて普通の業界です。

 

毎日辛くてどうすればよいか。

上司からの助言が素直に受け止められず、
強く反発したことも幾度となくありました。

もちろん、悩みを聞こうと
手を差し伸べる先輩たちもいたのですが、

その優しさに対しても、
幼少期から親にたたき込まれた、
一人っ子ゆえの
「何でも自分でできるようになりなさい」
の呪縛が邪魔をします。

一切弱みを見せることもなければ、
甘えるという考えすら思いつきませんでした。

 

こんな具合ですから、
悩みに悩んで
精神的に追い詰められ、
這い上がってこられない時期も
決して短いものではなかったのです。

 

そんな中でも、まず、
話す技術の面で続けたことは、
アクセントの修正、
伝えるための話の間や、
注意を引き付けるための言い回しに言葉の選び方など。

先輩アナたちに尋ねては自分でもとことん考え、
それこそ毎日トライ&エラーを山ほど繰り返し、
話す技術を磨きました。

取材に関しても、
県外出身者だからこそ新鮮に感じる、
その土地ならではの景色、
ユニークな活動をしている人、
名物を拾い上げて紹介するなど、
常に新鮮さを求める工夫をしていき、
少しずつではありますが、
認めてもらえるようになっていきました。

 

6年間の在籍期間に
経験させていただいた仕事は、

ニュースキャスター以外にも、
レポーター、
ラジオパーソナリティー、
子育て番組の取材・制作、
長野オリンピック・パラリンピック取材、
パラリンピック閉会式ラジオ実況生中継などなど。

たった6年とは思えないほど密度が濃く、
多岐に渡る内容でした。

 

一方、ハードな毎日の中、
もともと好きだった紅茶に関して
教室が開催されていることを知り、
仕事の合間に
カルチャースクール形式での紅茶教室に参加。

ここで産地別の旬の紅茶に出会い、
衝撃を受け、
勉強の末、講師資格を取得します。

 

1999年、
辛いことも楽しいことも山ほど経験し、
人生で最も濃密で貴重な期間を過ごした
信越放送を退社。結婚で金沢へ。

のんびりしようと思っていたはずが、
半年ほど経つと、“何かやりたい!”

じっとしていられない性分が顔を出し、
翌年、現在の姓島田で
紅茶のネット通販と講師業を、

旧姓滝沢でフリーアナウンサーとして
活動をスタート。

北陸放送(MRO)、
えふえむ・エヌ・ワンなどに
ラジオパーソナリティーとして出演。

イベント司会やナレーションなども行い、
アナウンス業と紅茶のお仕事、
どちらも同時進行で
地道に経験を積み重ね続けました。

 

慌ただしくも充実感のある毎日。
大好きなことだけを仕事にできているなんて、
本当に幸せです。

 

ただ・・・

一人なのに、
まるで二人の人物を演じ分けるかのような日々。

これは、いつまで続けたらいいのでしょう?

全く別の二つのキャリアは、
永遠に別のキャリアなのでしょうか?

疑問と不便さとを感じる日が
少しずつ増えていったのでした。

 

・・・次回へつづく・・・

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